身体研究家のなかしま (@Re2054)です。
今回は「自らの考え」について考えます。
自らの考えとは、トレーナーとしての考えでもいいし人間個人としての考えでもOK。
哲学や信条、理念などと言い換えても良いかもしれませんね。
もっと簡単に「フィルター」や「バイアス」でも良いんですが、哲学のほうが適当ですので。
まずはその哲学、信条から構築していこうという話。
哲学というと小難しい話に感じてしまいますが、今回は「考え方」ぐらいの感覚で捉えていきましょう。
そもそも運動自体が哲学的ですから、哲学を積極的に学んでみるのもアリです。
第1回をまだ読んでいない方はこちらから
自らの考えすなわち哲学や信条
我々の仕事は、クライアントとの会話や身体や運動の中から違和感や問題点、改善点を見つけることから始まります。
どういう見え方をしているかはそれこそトレーナーによって千差万別で、これまでの経験や知識量、センスに左右されます。
同じクライアントでもトレーナーが違えば、ピックアップされる問題点もアプローチも変わるということですね。
何か問題があると感じるときには、自分の中のフィルターにかけられてることになりますが、そのフィルターには何かしらの規範のようなものがあるわけです。
「問題ナシ・異常アリ」を判別するのは知識ではあるものの、その規範には知識以前のものも含まれています。
そのひとつが哲学というか「問題への挑み方」のようなもので、一番ライトなところでは「ケガにはツバをつけとけば治る」もそれからくるものです。
こうした哲学や信条は、
「私ならこう考える」の柱になるもの
先程、知識以前の問題と言いましたが、これは知識の仕組みからくるものだと言えます。
マイケル・ポランニーの個人的知識について見ていきましょう。
ポランニーの個人的知識
ハンガリーの物理学者であり哲学者であるマイケル・ポランニーによると、「知ること」もしくは「知識」は、
「ある諸部分を自己の身体の延長として同化して、それにわれわれの副次的意識を染み込ませることで焦点的な本体になる企て」
臨床の知とは何か (岩波新書) | 中村 雄二郎
だそうです。
知識が暗黙的なら「それを学習した個人」を省くことはできませんよね
つまり知識はあくまで個人的で主観的なもので、何かが知られるときには知る人が巻き込まれるということ。
だからこそ知識を単体で取り除いたり考えたりはできないわけで、世界に一つとして同じ知はないと言うわけです。
知の組み立て方は人によって違うということですね。
同じ知識でも、それを理解するトレーナーが違えば知識そのものが変わってしまう。
ということは、これから独学をしようとしたとき、または誰かから教えを請うとき、自分の拠って立つところが誤っていた場合には、伝える側の意図するところがすり抜けてしまう場合があります。
換言すると、見かけ上は正しくてもその知識そのものが誤りになってしまうというわけです。
教える側からしても、誰かの教えをそのまま別の誰かに伝える行為は、知識の誤った伝達になります。
ひっくるめて我々にはバイアスがかかっている、といっても良いかもしれません。
そこでひとまず自分の拠って立つところがどこなのか明らかにしていこうと、またはもう一度そこに還って構築していきましょうというお話。
そこで指針になるのが哲学や信条
つまり独自性を形成する場面において、どういう方向で学習していくか、知識を入れていくかの「導入部分」、ここに立ち返る必要があるということ。
そしてその指針として哲学であり信条を持ってきました。
トレーナーを目指している方、現在トレーナーをしている方は今いちど自身の哲学を見直してみましょう。
その哲学は学びの方向性を与えてくれているでしょうか。
次回は僕の「自らの考え」について触れていこうと思います。
この記事に関するコメント・質問はTwitter(@Re2054)にて受け付けています。
この記事からさらに学ぶには
1.ポランニーなどから多角的な知を学ぶ
コメント